(聞き手)
発災当時はどちらにいらしたのでしょうか。
(赤間様)
地震当時は、自宅近くで仕事をしていました。地震が収まってから自宅に戻り、支度をしてすぐに
消防団第5分団ポンプ置き場に駆けつけました。その場所も1.8メートルくらい水没しました。
初めは若い人たち3~4人に、
ポンプ車で、警戒しながら桜木方面に
広報するように頼みました。
ポンプ置き場の前にも徐々に団員が集まって来ていました。私がポンプ置き場に着いて、40分くらい経って津波が来ました。
初めは、30~40センチくらいの真っ黒い水で、津波だと騒いでいるうちに車などが流れてきて、団員も逃げるのがやっとでした。
ラジオはかけていたので、津波情報は把握していたのですが、仙台港に1~2メートルくらい来るのかなという安易な気持ちでした。
まさかこんなに被害があるとは思いませんでした。
(聞き手)
赤間様の家も津波被害を受けましたか。
(赤間様)
はい。4月になってから家に行ったのですが、家の中には何もありませんでした。親戚や友人などに片付けを手伝ってもらいました。車は4台が水没しました。ポンプ置き場まで車で来た団員たちの車は全部流されてしまい、私自身も車で行ったため、流されてしまいました。
(聞き手)
ご家族の安否確認はいつ出来ましたか。
(赤間様)
4、5日後に携帯が通じて確認出来ました。娘のお友達が下馬にいるのですが、ちょうど、その方の実家がお母様の独り暮らしだったため、そこの家を借りて皆で居たそうです。
最初は八幡小学校に避難したのですが、次の日、別の避難所に行くように指示されたそうです。
しかし、どこも人がいっぱいで、お友達に助けてもらったそうです。その後、家を修理する事になり、娘夫婦の家の修理を最初にして、そこに10人で半年くらい住んでいました。4月になってから自分の家を直して、住めるようになったのは半年後くらいです。
(聞き手)
今でも思い出されるような出来事や、印象に残っている事はありますか。
(赤間様)
震災当日、数人の団員に
ポンプ車で警戒に行くよう言ったのですが、夜になっても帰って来なかったため、津波に巻き込まれたのではないかと心配していました。
暗くなってから自衛隊の方も来たので、一緒に
救助活動をしました。砂押川の水がいくらか引いた頃に、砂押川の堤防から団員が歩いてきました。
ポンプ車で高い所にいたため、団員たちも助かったそうです。
無事に帰って来て良かったと喜んでいました。
団員の話ではバックミラーを見たら津波が見えたそうです。
(聞き手)
第5分団の団員は何名いますか。
(赤間様)
その当時で34名です。しかし、団員1人は仕事場からポンプ置き場に向かう途中で津波にのまれました。
その津波の夜、自衛隊のボートを借りて
救助が始まったのですが、色々な所で亡くなった方がいました。
毎日遺体の収容をしていたので、団員は本当に大変だったと思います。
遺体の収容や
救助活動は、約1週間続きました。夜はガソリン泥棒がいたため、2時間置きに交代しながらの警戒を2、3日続けました。そのため、休む暇はありませんでした。
(聞き手)
ポンプ置き場にいた際、あっという間に津波が来たのですか。
(赤間様)
そうです。津波もすぐ後ろまで来ていて、団員ものまれると思ったので、すぐ逃げるよう指示をしました。
それから、全員でポンプ置き場の2階に寝泊まりして、私も3月中は家に帰りませんでした。団員の8割以上が被害にあっているため、家でも寝る所がなく、ポンプ置き場に寝泊まりして、ずっと活動をしていました。
(聞き手)
在宅避難者の見回りなどもしましたか。
(赤間様)
翌朝になって、水が引いてから行いました。中でも一番ショックだったのは、亡くなった団員を探した事です。
車から出して、身元を確認したのですが、全員が泣いていました。
また、私の下で副分団長をしていた方の兄弟家族が行方不明で、皆で探したのですが見つかりませんでした。
グランディ21で遺体を収容していたのですが、そちらで見つかり、精神的にもかなり参っていた団員が多くいました。